今の自分自身がいるステージというのは、当然自分ひとりだけの力で成り上がってきたものではないですよね。
親や地域の環境、人間関係といったものがその成長の形成に大きく関わっているのは言うまでもなく、子どもの頃から継続的にあり続けた関係性の要因に左右されます。
子どもたちの成長を大きく左右するその環境をどのように提供するかは、その子どもたちを育てる義務を持ったものの当然の責務です。
誰から教えられたわけでもないその責務のもとに、子どもの健やかな成長と、明るい未来を夢見てその環境を整えようと意識しますよね。
その果てに社会的に「成功」したと言われる人物となるために、子どもに対してどんな環境を用意することが大切なのでしょうか。
その要素を端的にいうのなら、それは何なのでしょうか。
この本ではそれをひとことで語っています。
『成功する子 失敗する子 なにが「その後の人生」を決めるのか』ポール・タフ
「学校では教えてくれないこと」
カリキュラムに則って展開される授業やゼミというのは、詰め込み型、伝達型の教育体制であって、そこにある型に子どもをはめていくという考え方です。
一方で、心も体もしなやかで柔軟な子どもたちの成長期には、そういったカリキュラムの型にはめる前に、自分自身の型を持つこともまた大切です。
子どもたちにそんな環境を?と思われるかもしれないけれども、自分自身の型の形成が整わないうちに、既存の型に押し込められてしまうと、群集心理や全体主義に染まった個性が形成されていきます。
知ってか知らずかにしても、それに抗うことは可能です。
しかしそれは、子どもにはわかりません。
大きくなってからその環境を憂うかどうかは、周囲の大人が整える環境に大きく左右されるのです。
では、子どもが将来、柔軟性のある生き方を選べるようにするために「学校では教えてくれないこと」を周囲の大人はどのように整えるのがいいのでしょうか。
「非認知能力」を高める
たとえば、放課後の図書館で自分の好きな本を見つけて読書にふけった思い出は、どんなに面白い授業よりも刺激的でした。
たとえば、みんなよりも早く帰宅してサッカーや野球、ピアノや習字といったチーム練習やおけいこごとで身につけたことは、その技術の開花はさておきマインドの強さには大きく響いています。
一方で学習塾ってどうでしょう。
学校が終わって一目散に塾に駆け込み、まるで学校の教室と同じように机についてまた勉強をするその光景。
学校では教わらなかった方法で問題が解ける喜びはひとしおでした。
さて、ここで振り返ります。
おとなになった今、どちらの記憶が「楽しい思い出」でしょうか。
少なくとも私は前者、学問を離れたところにあるコミュニティで培った記憶がより鮮明で楽しいものとして残っています。
これは「非認知能力」と呼ばれるスキルの向上に働いています。
認知能力と呼ばれる、IQやアチーブメントテスト(学力習熟テスト)といったもので指し示されるものとは異なり、非認知能力とは意欲や協調性、粘り強さ、忍耐力といった個人の特性を指し示すものになります。
IQとは異なり、EQ(心の知能指数)を高めるための環境が子どもの将来の個性に大きく寄与し、その振り幅を広くしていきます。
ではEQを高めるために、先述した子どもの型を形成する時期に、周囲の大人が気を配らないければならないこと、それはなんでしょうか。
「教える」ことから「みずから学ぶ」ことへ
大切なのは「自分で生きる力」を子どものうちに身に着けさせることでしょう。
群集心理、全体主義の意識が芽生えてしまっては、その枠組の中で生きること以外の選択肢を受け付けなくなります。
なぜなら、そこからはみ出した行動や思考は周囲から咎められ、受け入れてもらえないから。
その枠組を越えることに抵抗をいとわないしなやかさこそが、ガチガチに教えこんで型にはめるのではなく、「みずから学ぶ」ことの重要性を体験して身につけさせることに尽きるでしょう。
気づいたときには全体主義の意思決定に則った、他人の敷いたレールの上でしか思考できない人間になってしまう、そんなおそろしい未来から離脱できなくなってしまうかもしれません。
子が活躍する時代、その子の未来はその子自身に押し付けるのはあまりにも酷です。
子どもに整える環境のあり方
子どもの成長を見守る大人の役割は、子どもに慢性的なストレスを与えることのないように、そして心的外傷から遠ざけるようにすること、ここに帰着してきます。
親の存在についてはそれぞれの家庭環境があるから、それこそ運命とくくってしまうものになるかもしれません。でも、子を思う親の気持ちが素直であるならば、その心に従った環境を整えることに腐心したいものです。