善悪の判断基準が曖昧になってきた現代、
自分自身の意見をいうことさえも
ははばかられるような時代に
突入しているのでしょうか。
かつては親だけでなく、
近所のカミナリオヤジや
学校の先生までもが
ものごとの善悪について
厳しく教えつけてくれたものでした。
しかし、今はそれが希薄になっているように
そう感じるのはなぜでしょうか。
自称「知識人」の浅はかな解釈が国力を下げる
テレビやマスコミで
紋切り型の価値観を押し付けたり、
自らの立場を死守する発言しか繰り広げられない
自称「知識人」が毒にも薬にもならない
正義をふりかざすことに違和感を感じる著者が
それらを紐解いていきます。
結果として、現代に足りていないもの、
それは善悪の判断基準になる
「ものさしが不在」であることと、
そんな不安定な世の中から脱するための
「処方箋を焦って欲しがること」にあると
著者は述べています。
十分な価値判断ができないのに、
対処療法としてその場しのぎの考えを持ち込むと
脆弱な知識を持った人間しか生まれず
さらにそれが集団となると
国家、国力はみるみる衰退していきます。
それを危惧する著者による
世の中が少しずつずれてきていると感じる
「違和感の正体」が何であるのかを伝える
憂国の論考がこの1冊です。
・「知識人」はなぜ舐められるのか
・教育における「権威とサービス」は両立するか
・閉塞した時代に生き方、働き方で「新しいこと」は存在するのか
・「弱者」への同情は正義なのか
この本の帯にある
『「正義」のカラ騒ぎ!』とは、
まさしく浅はかな情報に陽動させられていないかという
警鐘を端的に言い表しているでしょう。