スギ(@sugi_pallat)です。

私が若い頃は、親族の死というものに触れることがほとんどなく、「死ぬということ」に対する価値観を自分自身の中で精査する機会もそれほどなかったのですが、30歳を越えたあたりから3〜4年おきに親族の死を目の当たりにするようになり、最近ではさすがにこの価値観に対して解釈をもつことから逃げも隠れもできないようになってきたと感じてはじめていました。

仕事柄、葬儀に参列することは頻繁にあり、そのつど故人を偲びながら故人とご関係のある私のおつきあいのある方の身を案じながら、一方で我が身や家族、親族にこのようなことがあればどうしたものかとも感じるものです。

もちろん突然、私の身に何か起こったらどうしようというのもまたしかり。

大病や大きな怪我を伴って予後不良とでも所見されるものならば、また心構えも変わっていくものですが、突然の別れということもあるものです。

スポンサーリンク

親しい人の死から、自分自身のルーツを見つめ直す。

2018年4月8日の朝、おじを亡くしました。

1年8ヶ月に渡ってがんと戦ったものの、末期がんと診断されてからの経過で好転を迎えることはありませんでした。

私と約20歳の年の差があるおじは、私が保育園に通っていたころから共働きをしていた両親に成り代わって、しょっちゅう面倒を見てくれていました。

発売されて間もないファミコンを見せてくれたのも、本格的なAV機器を取り揃えてホームシアターのすごさを教えてくれたのも、パチンコやパチスロを教えてくれたのも、気持ちのいい頭の洗い方を教えてくれたのも、カープソースの美味しさを教えてくれたのもおじでした。

地元で野外フェスがあるときに、無理を言って友だちを泊めさせてくれたのもそうだったし、富士機械製造のうどん自販機があちこちにあるのを食べ歩きに連れて歩いてくれたのもそうでした。

子どもの頃、どんなに見積もっても約30年以上前、私の実家である庄原市に「うどんの自動販売機」がありました。お金を入れて数十秒待つと、調理済みのあたたかいうどん...

大きな顔をしている私の顔よりも大きな器でラーメンを提供してくれるお店を教えてくれたのも、おじでした。

スギ(@sugi_pallat)です。私の地元、広島県庄原市には、顔の大きさよりもだんぜん大きなどんぶりで提供されるデカ盛りラーメンがあるんです。私が今から25年以上も前...

ああ、どれもこれも私がいまの私として存在するに欠かせない要素だらけだ。

人間は20歳までに経験したことが、人間性に影響を与える。

ああそうだ、ここから先を読み進める前にひとつだけ書き足しておくとすれば、あなたが他人の不幸を記事にすることに嫌悪感を抱くのであれば、そっとここで読むのをやめてくださいね。

では、つづけます。

6歳になったばかりの娘を持つ親としての私は、この6月に43歳となります。

スギ(@sugi_pallat)です。昨日(2018年4月18日)、娘は6歳の誕生日を迎えることができました。すくすくと順調に育ち、自我も芽生えて口も達者になってきた今日このご...

それなりの立場や責任のあるお仕事をおおせつかっている一方で、家庭に入れば父親として存在する私にとって、そのルーツは先に述べた項目が要素として脈々と流れ続けているのはまぎれもない事実。

そのベースがあるからこそ、後天的に学業や社会人として身につけたことが、こうやってブログの記事としてあらためて見つめ直す機会として生きているんだと感じる次第なのです。

パーソナルブランディングを構築するときのコンサルタントとして私がお話をするとき、「人間は20歳までに経験したことが、その人の人間性に大きく影響すると言われている。ワクワクしていたことを【20個以上】書き出す。ささいな事も思い出す。」というワークをしていただいています。

当然、私も自分自身でこのワークをしているのですが、20歳まで(もしくはその前後)に経験した20を超えるのワクワクのなかには、亡くなったおじがいたからこそのものが数多くあるんですよね。

故人を偲ぶということは、今ある自分自身の姿を思い返しながら、あの人と一緒にいたから今の私がいるんだと再確認することでもあるんでしょうね。

多くの方に参列していただいた通夜、葬儀。

振り返れば通夜、葬儀ともに多くの方に参列していただきました。

社交的で人情味あふれるおじの人柄が、その最後の別れにと多くの方に足を運んでいただけたものだと振り返ると、そういうおじに恵まれたことに感謝してもしきれないのです。

親孝行したいときには親はなしとはいいますが、それはなにも親に限った話ではないでしょう。

むしろ、孝行の後悔は大なり小なりするわけですから、「死」をひとつのけじめとして捉えながら、我が身に臨命終時を迎えるその瞬間まで、関わるものへの感謝とねぎらいを忘れることなく、生き続けたいと感じるわけです。

故人を思う気持ちは、今あるあなたの存在を認めて、恩送りをすること。

私自身、大病というほどの命を賭すような病に襲われたことはないものの、自宅付近が土砂災害で甚大な被害に襲われたり、交通事故などであわやという瞬間を二度も経験するといった「死」と隣り合わせの状態には何度か出くわしてはいますが、ぼーっと生きていたら見失ってしまう人生の価値であったり、生きているうちになにを爪痕として残すかということにも密接につながるんだろうなあと思うわけです。

子育てに悩む瞬間も、振り返ればそれはそれで楽しかったと思える日がくるでしょうし、お金に苦しんだことがあっても、あのときは苦労したねと振り返るときに笑顔であればそれでいいのかなあとも思うんですよ。

それもこれも、今を生きているからこそ感じることができるわけで。

そして、今を生きているというその根底には、育ててくださった方の愛や思いが無限に詰まっているわけで。

おじがおじでいてくれたことに感謝をして、今度は受けた恩を送っていくこととします。

今以上にね。